03. 呼吸も瞬きも忘れて
「ン、こんだけヤりゃー十分やろ。質問は?」
書類に書かれた一通りを説明し終わったところで、そう訊かれる。
必至に文面を目で追っていたマールリアンは、その内容と予想される自分の状況を思い浮かべ、苦く笑うしかなかった。
質問もなにも・・このスケジュール通りに動けと?兄以上の鬼が・・目の前にいる。
感心してる場合じゃないと言う言葉は、あながち大袈裟なものではなく、書類に書き込まれていたのは、朝から晩まで訓練づくしの過酷なメニューだった。
もちろん、素人ということを考慮して可能な範囲ではあったが、それもギリギリ路線という感じだ。
果たして、きちんとこなせるかどうか、自信がないのが正直なところ。
「──王族やからと気ぃ使って、甘い訓練しても、ええ技術は身に付かへんしな。大丈夫、きっとやり遂げられるはずや」
思いがけない励ましを貰い、顔を上げれば、どこまでも冷静な紅がマールリアンを見つめている。
つい先ほどの戯言も手伝って、とてもではないが、そのまま受け取る気にはなれず、首を傾げた。
「・・そうでしょうか・・。私はド素人ですし、武術の才能があるかどうかも怪しくて・・アウルム王のご期待に添えず、ご迷惑にしかならないのではないかと・・」
「いや、いける。俺の見る目は確かやで」
揺るぎない言葉。
真っ直ぐに見つめる瞳には、先ほどとは打って変わって真剣な色が浮かび、嘘や偽りのないことを本能が悟る。
女癖はともかく、武術に関して剣豪王と名高い彼に、そこまで太鼓判を押されては、腹を決めて死にものぐるいに頑張るしかない。
「・・有り難うございます・・。ご期待に添うよう、努力します」
「おぅ。やるからにはこっちも全力尽くす。これからしばらくの間、よろしゅう」
一国を治める王でありながら、気さくに笑う表情には好感が持て、マイナスだった彼の印象が少しだけ回復した。
女性に関する問題にだけ目を瞑れば、人間性は悪くない。
そうなると・・やはりここは、礼儀を尽くさねば。
「・・あの、アウルム王。一つ、ご相談があるのですが・・」
「なんや?」
「私のことは、どうか『マリオン』と呼び捨てにして下さいませんか」
とても小さなことではあるが、そうすることで、自分も立場をわきまえられるような気がした。
奇妙な申し入れに、彼は戸惑う。
「『マリオン』・・んー、ようは愛称で呼んで欲しいん?せやけど、キミはプラティナ国から預こうた大事な客人やしなぁ。いくらなんでも、ちょっと・・なぁ」
「いえ。私は武術を学びにきた留学生で、王は・・いわば、先生です。目下の者を丁寧に呼ぶ方が違和感があると思いますが」
「ふむ・・分別を付けへん方が、むしろ失礼にあたる言うことやな」
「ぅ・・そういうわけではないのですが・・。と、とにかく、私の方が年下でしょうし、呼び捨てでお願いします」
ある意味ワガママにも聞こえる些細なこだわりだが、受け入れて貰えれば気持ちが楽になる。その一心で、頭を下げた。
と、少しの間を置き、ようやく、彼が口を開く。
「──分かった。せやったら、俺のことも『出雲』と呼んでくれ。これで筋が通る」
だが、それはマールリアンの望む答えではなく、受け入れがたい交換条件だった。
弾かれたように顔を上げ、そのままブンブンと首を横に振る。
「とんでもない!そのような呼び方・・できません!アウルム王は一国を仕切る、名高く能力のある方で、私とは違うのですから!!」
「・・ちなみに、キミの年は?」
「は?私の年・・20歳ですが」
「俺も20歳。同い年やったら、お互い呼び捨て合うことに問題はあらへんやろ。それこそ自然というものや」
至極冷静に、しれっとした様子で言われ、マールリアンは目を丸くした。
今、彼はなんと?
その顔、その実力、その名声で・・自分と同い年?彼も・・20歳?
「え・・えぇえぇえ!?そんな・・あ、あり得ない!!」
相手が誰かも忘れ、素っ頓狂な叫び声を上げて驚く。
「──何歳やと思うとったん?」
「兄上と同じ25歳かと・・どう見ても、その容姿は20歳とは思えません」
半ば、茫然自失なまま素直に答えてしまい、ハッと口を押さえて俯いた。
言うまでもなく、完全に失言。
じわりと嫌な汗が額に滲む。相手の器が大きいとはいえ、さすがにこれは気分を害したに違いない。
とても顔を合わせる気になれず、それでも、そのまま視線を外し続けるのも失礼な態度だと思いとどまり、おそるおそる目線だけ上げる。
てっきり、不機嫌に歪む冷たい表情あるものと思っていたマールリアンの目に飛び込んできたのは・・。
「・・くくっ・・」
片手で口元を覆い、声を殺して低く笑っている彼の姿であった。
え・・笑って?いや、笑えることなど一つも言ってない。
これはどういう意味なのだろう・・。怒りが度を超えすぎて、逆におかしくなってしまったのだろうか。
想定外の反応を、どういう気持ちの表れと取っていいのか分からず、マールリアンは途方に暮れる。
そんな彼女の顔を見て、ひとしきり忍び笑った彼は、一つ咳払いをした後、態度を改めた。
「──失礼。面と向こうて、兄弟揃うて同じことを言わはるから、可笑しゅうて」
「あ・・兄上にも言われたんですか?」
「うむ。せやけど、俺は確かに、マリオンと同じ、まだ20歳なんやけど・・。どうしても信じられへんのやったら、出生証明書でも取り寄せて見せよか?」
「・・い、いえ。そこまでしていただかなくても・・。若年でも優れた方はいますし、ね」
にわかに信じがたく思ったものの、さすがに出生証明書を要求するまでの勇気はなく、不承不承、言葉を飲み込んだ。
そして、さりげなくもしっかり耳にした単語に注目する。
って・・今、私のことをマリオンと呼んでくれた。
なんだかんだ言っても、きちんと受け入れて下さったのか・・良かった。
自分の望み通りの名で呼ばれたことに、ホッとしたのも束の間。
真っ直ぐに見据えてくる紅の瞳は、対価を求めるように、彼女の言葉を待っていた。
あまりに力強い視線を一身に浴び、顔が引き攣る。
これは・・なにがなんでも、引き下がりそうにない目だ・・。
負けじと目を合わせ続けていたマールリアンであったが、圧倒的なプレッシャーを前に、心が折れてしまった。
大きく息を吸い込み、ありったけの勇気を持って、その名で呼ぶ。
「・・わ、分かりましたよ。出、雲・・これで、いいのでしょう?」
「──かなりぎこちないけど、良しとしよかー」
「・・はぁ・・」
あっさりとした体で頷かれ、彼女は疲労感いっぱいの深い深い安堵の息を吐いた。
武術の訓練はまだだというのに、すでにもぅ、全力を出し切った気分で項垂れていると、目の前に大きな手が差し出される。
次はなにをしようというのか・・彼の一挙一動が彼女にとっては脅威となり、必要以上に身構えてしまう。
「な、なんでしょうか・・」
「なにって、これからしばらく行動共にするやろ?愛称で呼び合う仲にもなったんやし、友愛の証として握手でもと・・あかん?」
途端に表情を曇らせ、遠慮がちに言われては、断るのが悪いように思え。
まして、友愛の証と言って求められている以上、好意以外のなにものでもない。
ここは、快く受けて当然の流れ。
「い、いえ」
「ほな・・改めてよろしゅうな。マリオン」
「こちらこそ・・宜しくお願いします・・出雲」
差し出された手を取り、ギュッと握る。
自分より一回り大きな手は、武骨なのにとても温かい。
「・・これから、楽しゅうなりそや」
ふっと呟いた出雲の顔は、今まで見たことも無いほど穏やかで優しく見えた。
その表情はマールリアンの鼓動を、1トーン上げるに十分な威力を持っていて、思わず固まる。
色々な意味で、やはり彼はただ者ではないと感じた。
彼女が、呼吸も瞬きも忘れた瞬間。