05.いてくれてありがとう

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 都築要という人が侮れないことは承知していた・・つもりだった。
 こちらにも考えがあるとの宣戦布告を、私はもっと深刻に受け止めるべきだったのかもしれない。
 すべては、あとの祭り。


「千景さん。こちらの資料をデーター化しておいて戴けますか?」
「・・はい」


 書類の束を受け取りながら、小さく溜息を吐く。
 元々、私の受け持ちはデスクワークだったし、仕事内容として言うなら、特に問題はない。
 問題なのは・・どこまでも柔和な表情で、いわゆる上座に席を構える課長の存在。


「都築課長。この書類なんですけどぉ、チェックして戴けますかぁ?」
「はい、見せて。──うん、オッケーです」


 同僚の甘ったるい声に笑顔で応対しているのは、私のルームメイトにして、つい先日、上司となった要さん。
 彼の言う“経費削減”“一挙両得”という名の脅しに泣く泣く屈した私は、一緒に通勤することになったばかりか、その日の内に所属課移動の通達を受ける。
 幸いだったのは、同期で一番仲の良いゆきちゃんも一緒に移動だったこと。
 もちろん、黒幕は要さん。今や、すっかり人材管理課の一員として、毎日、彼から業務を仰せつかる立場になってしまった。
 けれど・・移動して早々、私はある意味の修羅場を迎える。
 要さんが来たことで、人材管理課は新たなトップの元、再編成することになり、その名簿を作成している時のこと。


「あれぇ・・都築課長、この住所って・・」


 みんなの住所を入力していた甘ったるい声の同僚こと、村上レイナさんが二枚の紙を交互に見つめ、首を傾げた。
 嫌な予感・・。


「・・なんで、千景さんと同じ住所なんですか・・?」


 言ってくれるな、というささやかな祈りは、村上さんに届かなかった。
 もちろん、ゆきちゃんにだけはルームシェアの一件を明かしておいたから、この時、特別視されることはなかったけれど・・その他、事情を知らないみんなの目が一斉に私と要さんとを往復する。


「ええと・・それは・・」
「ああ、僕と千景さん、一緒に住んでるんだよ」


 どう説明したものかしどろもどろに言葉を詰まらせる私とは対照的に、彼はあっさりと・・それはもぅ、なんの迷いもなく、真実を口にした。


「え?」
「は?」
「なん・・」
「えええええ?」


 それぞれがそれぞれに驚きの声を上げ、好奇の目と──嫉妬の目を向けられる。


「課長と千景さんって・・そういう仲だったんスか?」
「なにそれ・・どういうこと・・?」


 言わんこっちゃない・・だから、同じ課なんて嫌だったのに。


「あーぁ・・嫌なバレ方したね。大丈夫?雫・・」
「なんとか・・」


 じわりと額に滲む汗。居心地の悪さに、泣きたくなる。


「・・いや、違うよ。僕の親友が彼女の兄で、居候させて貰ってるんです。つまり、僕と千景兄妹の・・三人暮らしなんだ」
「三人・・?」
「ええ。だから、同居している手前、通勤も一緒にしてるけど、僕と千景さんは特別な関係などではないんですよ。その気もないのに仲を疑っては、彼女の迷惑になります。やめてあげて?」
「なぁんだ、そっかー。はーい、わかりましたぁ」
「・・有り難う。宜しくね」


 言い繕って、にっこりと笑う表情に、なぜか心が沈んだ。
 私のためを思っての嘘なのは明白で、これで不利になりかけた自分の立場は護られる。
 そう、護られた・・護ってくれたんだ・・けど。


「では、仕事を始めましょう。千景さんも・・頑張って下さい」
「・・はい」


 事務的な笑顔と、その他大勢への同じ物言い。


「ふーん・・大人ね、都築課長。でも・・複雑な女心の理解力は足りないわ。ね?雫」
「別に・・なんとも思ってないわ」


 苦笑するゆきちゃんを軽く睨み、私は穏やかじゃない心中で、仕事に向き直る。
 ──そうよ。ここまで徹底することはないんじゃないの?
 家での彼とのギャップに、裏暗い悶々さが募った。


 あの日から、利子と称して要さんは毎日私にキスをする。
 柔らかく、甘く微笑んでは、暖かく大きな手で頬を包まれ、好きだと繰り返し囁く。
 まるで飴と鞭だ。
 実際、悔しいけれど私の心は確実に要さんに傾いてしまっている。彼の一挙一動、言動に一喜一憂している自分が確かにいるのだから・・まさに思う壷。
 陥落するのは時間の問題のように・・思えた。
 それから更に数日が経ち、会社の業務にも慣れ、私生活も許容範囲と割り切れるようになった頃、最初の転機が訪れる。


「・・千景さん、ちょっと話があるんだけどぉ?」


 一日の業務が終わり、帰り支度を終え、地下の駐車場へと向かう途中、呼び止められた。
 聞き慣れた甘ったるい声・・村上さんのものだ。
 振り向いて見ると、相変わらずのバッチリメイクにフワフワ赤茶色の巻き毛を揺らし、色香漂うデザインの私服を着込んだ彼女が、愛らしく小首を傾げている。


 なんだろう・・要さん、待っているのに。


 今日は珍しく定時で終わり、密かに外食でもしようと約束していた。いざ、出立というところで忘れ物に気づき、急ぎ取りに引き返して車へ戻る途中、呼び止められる。


「話って?」
「あなた・・勘違いしてないわよねぇ?」
「は?」


 勘違い?


「都築課長に特別だと思われてるだなんて、自惚れちゃ駄目よってこと」


 ああ・・なるほど。これはアレだわ・・色恋沙汰の裏工作?
 村上さん、見るからに要さんに気があるのバレバレだしね・・。
 別に自惚れてなんかいないけど・・彼が私に気があるのは勘違いじゃなく真実なのよね・・。
 小さく嘆息し、ここは事を荒立てずに聞き流して場を乗り過ごそう、と思った矢先。


「むしろ、千景さんが一番、範囲外かも。ねぇ・・気づいてたぁ?」


 どこか馬鹿にしたような、余裕たっぷりの笑顔にピクリとこめかみが震える。
 生理的な嫌悪感と、本能的な危機感・・彼女は私を“傷つける者”だ。
 言葉をマトモに受けてはいけない。働いた自己防衛は、しかし、悲しいほど薄い盾だった。


「都築課長、あなたにだけはなぜか一言一句すべてが敬語なのよねぇ。それってどこまでいっても、砕けた関係にはなり得ないって、境界線引かれてる証拠じゃないかしらぁ?」
「っ・・」


 最も気になっていた部分を突かれ、息が止まる。
 その・・通り。
 要さんはどこまでも丁寧な物腰を、私限定で貫いている。その意味を、意図を考えないようにしてきた。
 気のせい、だと。
 でも・・彼女の言うように、本当は・・。


「しずちゃん。遅かったですね」
「・・ごめんなさい、お待たせしました」


 運転席から私の顔を伺う視線に身体ごと背けながら助手席へと座り、小刻みに震える手でシートベルトを締める。
 当然、私の様子のおかしさは一目で隣人に見抜かれた。


「どうしました?表情が暗いですよ・・どこか具合でも悪いんですか?」
「・・少し、気分が悪くて・・多分、疲れているせいだと・・」
「それはいけませんね・・。外食はまた今度にして、家に帰りましょう。今日は僕がなにか軽く食べられるものを作りますよ」
「・・うん・・ありがと」


 家に帰り着くと、具合が悪いとの言葉を真に受けたらしい彼は、いつも以上に優しく接してくれて、眠りにつくまで体調を心配してくれた。
 その日、要さんがした利子のキスは・・頬に触れるだけのもの。
 口づけが長くなってきていた最近を思えば、嫌でも物足りなさを感じてしまい、そこまで気遣う理由は村上さんが言っていた“境界線”なのではないかと、不安に駆られる自分がいた。
 それは自分勝手に、自分本位な、彼の本気をないがしろにした我が儘であると思い知るのは、第二の転機。


 翌日、職場に掛かって来た一本の電話が、私と要さんの曖昧な関係に終止符を打つことになる。


 

「千景さぁん、5番に外線入ってるよぉ」


 甘ったるい声に呼ばれ、首を傾げた。
 外線だなんて・・一体、誰だろう。私の知り合いで用があれば、携帯に掛けて来るはずなのに。


「あ・・はい。今、取ります」
「プライベートなら、携帯とかに掛けて貰うようにしたらぁ?会社の電話私用で占領とか、困るのよねぇ」
「・・すみません・・」


 嘲笑う村上さんの声に小さくなりながら、受話器を取る。


「お電話代わりました、千景ですが・・」
『千景・・雫さん?鏡ちゃんの、妹さん、よね・・?』


 初めて聞く女性の声だった。“ちゃん”付けで呼ぶことから、親しい間柄なのだろうとの察しはつくけど・・誰?


「・・そうですが。どなたです?」
『ぁ・・ご、ごめんなさい。名も名乗らず・・あたし、鏡ちゃ──お兄さんの同僚で、伊万里飛鳥(いまりあすか)と申します。あの・・落ち着いて聞いて欲しいんだけど・・』
「はぁ・・?」
『たった今、お兄さんが、事故に遭われたの』


 聞いた瞬間、スッと血の気が退いた。
 お兄ちゃんが・・事故・・?


『それで・・今から手術をすることになって・・』


 事故・・手術・・それほどに兄の状況は悪いんだろうか・・もしかしたら、死んでしまう・・?
 受話器を持つ手が震え、目の前が真っ暗になる。 
 ふらりと傾いだ身体を支えてくれたのは・・いつの間に寄ったのか、慣れた気配。
 気遣う瞳がレンズ越しに私の顔を覗き込む。


「千景さん・・どうしたんですか?やはり、まだ、体調が・・」
「・・要さん・・どう、しよう・・お、お兄ちゃ・・お兄ちゃん、が、じ、事故に・・」


 込み上げる嗚咽を必死で押さえ、どうにか、それだけ告げた。言葉にした途端、耐えていたものが一気に溢れ出す。


「雫っ!?」


 駆け寄ろうと席を立つゆきちゃんを、課長である要さんが首を振って押しとどめる。
 室内のざわめきを感じながらも、しゃくり上げて泣き出した私には、もぅ、冷静な応対なんて無理で、滑り落ちた受話器を取り、代わってくれたのは彼だった。


「・・お電話代わりました。都築要と申します。あとは僕が・・ええ、そうです。はい、ええ、ええ・・そう・・ですか・・ちょっとお待ち下さい。確認してみます」


 一通り話を聞いたらしい要さんが、私へと向き直る。


「一応、手術には家族の承諾が必要なんだそうです。受けますよね?」
「っ・・お、お願いします!お兄ちゃんを・・お兄ちゃんをたすけて・・」
「──手術してください。はい、あとはそちらにお任せしますので・・鏡のこと、宜しくお願いします」


 それからお互いの連絡先を伝え合い、二言三言、言葉を交わして、彼は電話を切った。
 一部始終を見つめて思う。私、どうすればいいんだろう・・すぐに駆けつけられる距離じゃないし・・。
 なにも出来ない自分が不甲斐なく、唯一の肉親を失うかもしれない現実に、ただ泣くことしかできない。情けないよ・・。


「しずちゃん・・鏡は死んだりしませんよ。とにかく・・自宅待機で、伊万里さんからの連絡を待った方がいいでしょうね・・水島くん。僕と千景さん、早退しますから、あとお願いします。狭山さん、千景さんのフォローを・・」
「あ・・は、はい」


 宥める仕草で私の肩を叩いた要さんは、次長である水島さんとゆきちゃんに指示を出し、自身も取り急ぎ帰り支度を始める。


「雫・・はい、カバンとコート。きっと大丈夫・・大丈夫だよ」
「うん・・ありがと、ゆきちゃん・・」


 ぎゅっと力強く手を握り、笑顔で励ましてくれるゆきちゃんに、プラスの涙を誘われた。
 不安が少し和らぎ、希望を持って前を向こうとした矢先、場を壊す甘ったるい声。


「えー、なんで都築課長まで早退なんですかぁ?千景さんだけ帰ればいいと思いますけどぉ・・」
「あんた・・状況、分かってるでしょ?雫のお兄さんが危ないのよ!?」
「だからってぇ、わざわざ、課長が付き添わなくてもぉ・・。忙しい立場なのに、私用で仕事の邪魔しちゃ悪いって、普通は遠慮するもんじゃなぁい?」
「っ・・最低。私情丸出しなのはどっちよ・・」


 呆れた、と、眉をひそめるゆきちゃん。
 暗黙に彼女が言いたいのは、一人で帰れと言うことなんだろう。
 嫉妬と悪意に満ちた村上さんの言葉は、今の不安定な私にはきつすぎて、うまく反応できない。


「・・“課長”が私用で早退は、聞こえが悪い。そういうことかな?」


 静かな低い声。表情こそ柔らかなのに、要さんの目は鋭くて、笑っていなかった。
 と、机の中から一枚の紙を取り出した彼は、一斉に注目を浴びる前で記入し、自分で認め印を押して、それを村上さんに差し出す。


「これ・・は?」
「見た通り、有給休暇届け。人材管理課課長・都築要、ならびに、人材管理課雑務処理係・千景雫は、今日より三日間、有給で会社を休ませて頂きます」
「都築課長・・」
「会社で定められた枠内で、きちんとした手続きをとっての“休暇”ということなら、立場の問題もなにもないだろう?」


 にーっこり。上辺だけの笑みを造り、そう切り捨てた彼の手が私を肩を抱いて、用は済んだとばかりに歩みを進める。


「・・どうしてそこまで・・千景さんの面倒を見ようとするんですかぁ・・」
「どうして?そんなの決まってるでしょ。好きな人を支えたいと思うのは当然だし、彼女絡みの面倒なら、苦なんて一つもないからだよ」


 肩越しに一瞥しての決定打。
 それきり、私たちを止める声は掛からなかった。


 そして・・この瞬間、私の心は陥落したのだった。


 

 怒濤の一日が終わろうという時、吉報はもたらされる。
 兄の手術が無事に成功したと、伊万里さんから電話がかかって来たのだ。


「ほ、本当ですか?よかった・・本当に・・よかった・・」


 受話器を握りしめ、安堵の感涙にむせぶ。
 それから・・涙する私に優しい言葉を掛けてくれる伊万里さんとの電話は、切るタイミングを失い、延々と一時間ほど経っていた。


「・・しずちゃん。伊万里さんも疲れているでしょうし、鏡が無事なら、また後日、改めて電話しなさい」


 諭され、ハッと気づく。


「あ・・そ、そうですね。ごめんなさい、伊万里さん・・」
『ううん、いいのよ。顔を見て安心出来ない分、話すことで安心出来るなら、お易い御用だわ』
「・・有り難うございます」
『明日には鏡ちゃんも話できるはずだから・・それじゃあ、ええと・・おやすみなさいでいいのかしら?』
「はい、おやすみなさいです」
「お世話になりました、伊万里さん。おやすみなさい」
『おやすみなさーい』


 明るい挨拶の声を最後に、電話は切れた。
 フーッと、肩から力が抜ける。何度目か分からない「よかった」を胸の中で復唱し、いまだに涙の滲む目を軽く擦った。


「目、痛いんですか?あぁ、こんなに赤く腫れて・・氷で冷やした方がいいかもしれませんね」


 おもむろに両手で私の頬を掴み、ごく近い距離から覗き込んで来る彼。
 この体勢で繰り返し交わされた情事がフラッシュバックして、一気に意識してしまう。
 考えてみれば、要さんははっきり公共の場で私が好きだと言ってしまった。お互いの気持ちが通じ合っている事実をまだ知らない彼は、私から明確な意思を示さない限り、一方的な片思いとして振る舞い続けるだろう。
 そんなことは我慢出来ない。
 私はもぅ、自覚してしまった。自分の想いを。
 同じ仕草で彼の頬に両手を添える。


「しずちゃん?」


 戸惑う唇に、そっと自分のそれを重ねた。
 予想外の行動だったのだろう。目を見開いて固まる彼。


「要さん・・いてくれてありがとう。私も、あなたが好きです。好きに、なりました。ルームメイトではなく、恋人になってください」


 言って、きゅっと抱きつく。というより・・あまりの気恥ずかしさに顔を見ていられなかっただけなんだけど・・。
 惚けて微動だにしなかったのは数秒で、すぐ、応えるみたいに背中に腕が回り、抱きしめられた。


「──喜んで」


 申し入れへの答えは、同じ言葉での快諾。
 けれど、二人の関係はルームメイトから・・恋人へ。


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