01. 突然、視界に飛び込んで来た彼
「雫、今日もパス?」
「うん、ごめんね。ゆきちゃん」
終業時間になり、それぞれが帰り支度を始める中、私、千景雫(ちかげしずく)と同期で親友のゆきちゃんこと、狭山由紀江(さやまゆきえ)のこんなやりとりは、すでに見慣れた一コマになっているだろう。
今日は金曜日。社会人にとって華の週末の始まりともなれば、ストレス解消兼交流目的に飲みに行く人が多い。
けれど、私はもっぱら自分の部屋での晩酌が好みだったし、なにより、身内の束縛が激しく、ほとんどの誘いを断っていた。
「もぅ!今は一人なんだし、今日こそはって思ったけど・・やっぱダメ?」
「毎週、金曜の夜は電話が掛かって来るから・・家にいないと、うるさいの」
「はぁ・・遠く離れて一層、チェック厳しくなったわけね。全く、未成年の子供じゃあるまいし、少しぐらい大人の付き合いってものを考慮して欲しいわ」
落胆たっぷりの声に、苦く笑うしかない。
根気強く誘ってくれるゆきちゃんとは対照的に、すでに“付き合いの悪い子”というレッテルが貼られているのか、他の同僚は目もくれずに横を通り過ぎて行く。
「狭山さん、そろそろ行くけど・・話、まだ終わらない?」
それどころか、腰の重い私は邪魔なだけという視線を向け、親友を呼ぶ始末。
はいはい、すぐに帰りますよ。
「──ほら。呼ばれてる。早く行かないと、ね?」
「・・あたしも行くのやめようかな・・」
「大人の付き合いを考慮・・でしょ。まぁ、私自身、大勢でのお酒の席って得意じゃないからいいのよ」
「むー・・月曜日に新しく移動してくる人材管理課長の話で、密かに盛り上がろうと思ってたのに・・」
「他の女の子と盛り上がればいいじゃない」
「ミーハーな気持ちからじゃなく、真面目にどんな人かって話をしたかったの!なんでも、かなりの美形な上、相当なやり手らしいよ」
かなりの美形って・・それ、思い切りミーハーな気持ち入ってない?
矛盾に苦笑しつつ、参加を渋りだしたゆきちゃんに、私はそっと耳打ちする。
「じゃあ、移動してくる課長の話は、現物を見てから改めてするとして・・南條くんもいるんでしょ?むしろ、そっちのお土産話、期待してるから・・頑張って」
「し、雫!」
意中の同僚の名前を出すと、頬を赤らめて軽く睨まれた。
普段、とてもしっかりしている彼女は、色恋沙汰になると途端に少女のような反応をしてくれて、素直に可愛いと思う。
私にはそういう人がいないから、少しだけ羨ましい気もした。
「それじゃあ、お先に。お疲れさまでしたー」
「・・おつかれさま」
まだなにか言いたそうな彼女から逃げるように、別れの挨拶をして、会社を後にする。
辺りはすっかり夕暮れ闇。初冬とはいえ、ぶるりと肩が震えるぐらい、すっかり冷え込んでいた。
よし、今日は私もお家で晩酌だ!
・・って言うほど酒豪なわけではないけれど、サワーやカクテルなんかの甘いお酒をちびちび飲みながら、ぼやーっと映画やドラマを見るのは好き。
バスを乗り継いで自宅マンション近くで降りると、帰路途中のコンビニとレンタルビデオ屋さんに寄り、晩酌に必要な各種アイテムを揃えた。
ただ・・自分用の甘いお酒と借りたDVDが恋愛モノなのは、一人だからこその選択肢。
いつも共に晩酌をしてくれる存在が、今はいない。
「・・ホント急なんだから。しかもアメリカなんて、遠過ぎだよ」
誰に言うでもなく、そんな愚痴が自分の口から漏れた。
本当に遠い・・そうそう、気楽に逢える距離じゃない。
上京してからずっと、一緒に暮らして来た。悲しいことがあった時は慰められ、嬉しいことがあった時は自分のことのように喜んでくれて・・喧嘩もしたけど、誰よりも心強い味方だったのに。
今の私は──独りなんだ。改めて実感すると、寂しさが募る。
「はぁ・・いい大人なんだし、慣れないとだめだなぁ。とりあえず・・早く帰ろ」
沈みかけた気分を打ち払うように、大きく手を振って歩き出す。
見慣れたマンション。ホールに備え付けられたテンキーを押し、玄関のセキュリティロックを外す。エレベーターに乗り込んで、五階のボタンを押した。
我が家はもぅ、目と鼻の先。
ポーンと到着を示すベルが鳴って、エレベーターを下りる。歩きながらカバンの中を探り、鍵を取り出した。
顔を上げた先、我が家のドアの前にもたれ掛かっていた大きな影が、私の気配に気づいてこちらを向く。
──突然、視界に飛び込んで来た彼。
年の頃は20代後半?知的に整った顔にはノンフレームの眼鏡。きっちりスーツに身を包み、いかにもビジネスマンといった風体の、見たこともない男の人。
誰だろう・・なにかの勧誘?
「・・あのぅ、うちになにか御用でしょうか?」
注意深く近き、おそるおそる声を掛けてみる。
が、彼は言葉なくジッと私の顔を、ただ、見つめた。
つま先から頭のてっぺんまで何度も往復する視線は、あまりに不躾で・・ムッとしてしまうのは不可抗力というものでしょ?
「・・用がないのでしたら退いて頂きたいのですが・・中に入れませんし」
「あ・・あぁ、すみません。いえ・・用はあります。ここは、千景鏡(ちかげきょう)の部屋ですよね?」
慌てた彼は小さく謝罪した後、そう訊ねて来る。
千景鏡・・言うまでもなく身内。両親を無くした私の、唯一の肉親である実兄の名前だった。
ますます、彼の正体と用件が気になるところ。
「ええ、そうですが・・失礼ですけど、どなたですか?兄に・・なにかご用でも?」
「ということは、きみ・・しずちゃん?」
私の質問を軽く無視して、やはりしげしげと眺めて来る視線。
というか、“しずちゃん”って!?
「──私の名前は確かに雫ですが・・見ず知らずの方に、そんな呼び方される筋合いはありません」
不快感も露に視線を尖らせ、私を見下ろす眼鏡越しの瞳を睨んだ。
一瞬、キョトンと惚けた顔が、次いで、困ったように笑う。
「・・僕のこと、怪しい人だって疑ってますか?一応、きみとは何度か話したことがあるのですが・・」
当然、思い当たる節なんてなくて、ますます視線が尖った。
「見え透いた嘘吐かないで下さい。あなたとは初対面です」
「・・そうですね。実際に逢ったという意味では、初対面です。けど──知らない仲ではありませんよ」
「はぁ?」
「──よく思い出してみて下さい。僕の声に、聞き覚えがあるはずです」
「声・・」
言われてみれば・・耳に心地良いこのハスキーボイスは、以前、どこかで・・。
「あ」
そして・・遠い記憶の中に、思い当たる節とやらを見出した。
柔らかい物言いが大人っぽくて、こんな落ち着いた素敵な雰囲気の人が・・信じられないって、電話向こうの兄に軽口を叩いたのは、まだ、私が学生で寮にいた頃。
目の前の彼は、決して見ず知らずではない。
そう、彼の名は──。
「もしかして・・かなめ、さん?」
「──正解です。きちんとご挨拶するべきですよね・・初めまして。都築要(つづきかなめ)と申します」
ニッコリと満面に笑みを浮かべ、お兄ちゃんの親友は小さく頭を垂れたのだった。
軽口が現実のものとなって目の前に現れ、多少、混乱しつつも、素性が解れば、張っていた気も緩む。
「は、初めまして。兄がいつもお世話になって・・」
同じように会釈し掛け、第三者の気配に気づいた。私たちの横を、同階に住んでいるであろう名前も知らない隣人が通り過ぎる。
いつまでもこのまま立ち話というわけにはいかない。
慌てて、部屋の鍵を外し、ドアを開いた。
「・・とりあえず、中に入ってください」
玄関の明かりをつけて靴を脱ぎ、率先して部屋の電気をつけて回る。
マメに片付けておいて良かった・・。
どうにかお客さんを通せるだけの小綺麗な様子に、ホッと一安心。
「お邪魔します」
一拍置いて、要さんが部屋の中へと入って来た。手には大きなカバン。出張がてら寄ったとかかな・・。
キッチンに立ってコンビニ袋の中身を冷蔵庫にしまい、食器棚からカップを二つ取り出しながら思う。
立ち尽くしたままの姿に気づき、慌てて声を掛ける。
「適当に座って下さい。今、珈琲入れますね。お砂糖とミルクいります?」
「いえ、ブラックで・・。ありがとうございます」
勧めるままにソファーへと腰を下ろした彼は、くるりと部屋を見回し、感心したように言った。
「──随分と、部屋の様子が変わりましたね。なんだか・・女の子らしくなりました」
「そう、ですか?うーん・・私が色々と買い込んで揃えたせいかも・・だって、お兄ちゃん、そういうの無頓着で・・ものぐさ過ぎなんですもの」
「まぁ、男の一人暮らしはそれでいいのでは?女性的には母性本能をくすぐられて、お世話したくなるでしょう」
「え・・そういうものなんですか・・」
あの兄がそんな男女の駆け引きで、無頓着なフリを?
いやいや、違う気がする。
「実際、しずちゃん。放っておけずにこうしてお世話しに来ているみたいですし・・身内に効き目があっても、意味ありませんけどね」
「はぁ・・でも、私の場合は自分のためでもあるから、例外のような・・」
珈琲を満たしたカップをテーブルに置き、対面に腰掛けながら言うと、要さんは少しだけ眉を顰めた。
「自分のためだなんて・・どこまでも兄想いなんですね。正直、鏡が羨ましい・・それで?肝心のお兄さんは、最近、仕事忙しいんですか?今日も、帰り遅くなりそうです?」
腕時計を見る彼の仕草に、私も部屋の時計を仰ぎ見る。
時刻はすでに八時を回ってしまっていた。
彼の口ぶりと、予告なく訪れた行動から察するに、今の我が家がどういう状況なのか知りえていないのかもしれない。
これ以上、引き止める訳には・・いかないよね。
「えーと・・忙しいというか・・要さん。なにも聞いてないんですか?」
「え?」
「お兄ちゃん、もぅ、日本にいませんよ」
「それはどういう・・」
「つい先日、アメリカに転勤になったんです。だから、いくら待っても、兄は帰って来ません」
「・・それ、本当、ですか?」
「はい」
予想通り、私が告げた内容に唖然とする要さん。
動揺がありありと見て取れる表情で口元に手を当てると、なにかを考える風にぐっと押し黙った。
重苦しい空気に居心地悪く思いながらも、彼の中で現状が消化出来るのを待つ。
ほどなくして、深い溜息が耳に届いた。
「・・つまり、今、この部屋で一人暮らしをしているのは、しずちゃん?」
「そうです」
「・・・・・申し訳ないんですが、鏡に連絡取って貰えませんか・・」
「へ?今・・ですか?」
「はい。今すぐ。僕、鏡の向こうでの連絡先知らされてないですし・・お願いします。国際電話で高くつく通話料は、請求して下さって構いませんから」
「いえ、それはいいんですけど・・ちょっと待って下さいね」
あまりに真剣な目と、どこか剣呑な様子に気圧される形で家電の受話器を取ると、慌ててダイヤルをプッシュする。
回線を繋ぐアナウンスの後、聞き慣れた声が電話口に出た。
『・・もしもしぃ?なぁんだよ、しずー。こんな朝っぱらから・・』
ああ、向こうは早朝か・・兄の不機嫌な声に時差を認識する。
「あ、お兄──」
言いかけるものの、いつの間にか背後に立った彼に、言葉なく受話器を奪われた。
驚いて振り向いた先にあったのは、壮絶なまでの冷気を宿した笑顔。こころなしか目も据わってるような・・。
急激な変化に戸惑い、どうしたのか訊ねようと口を開きかけたのを、静かに・・と人差し指一本で制された。その指が電話のスピーカーボタンを押す。
私にも聞こえるようにという配慮なのだろうけど・・意図はまだ読めなかった。
『急用じゃないなら、また後で掛け直してくれ』
兄の声がリビングに響くと、大きな手のひらが私の肩を叩き、端正な顎がソファーを差し示す。
「珈琲、冷めちゃいますよ」
電話口を抑えた彼に言われ、流されるようにソファーへ舞い戻った。
『疲れてんだ、切るぞ』
こちらの状況などおかまいなしに、一方的な勝手をしようとする兄に、要さんの目がますます剣呑な光を宿して眇められる。
「──この電話を切ったら、後悔することになるぞ」
『あ?・・ちょ・・なんで男が・・雫??』
「よもや、親友の声を忘れたわけじゃ、ないだろう?鏡」
それと解る低い低い声音で、電話向こうの寝坊助に挑戦的な言葉。
数秒の沈黙の後──。
『・・っっっっっ!?・・オマエ・・か、要!?なんでっ・・!』
一気に眠気が覚めたという風に、慌てふためいた兄の声。
この一本の電話により、私の生活が大きく崩れることになろうとは・・。